The continent, 八木と、OOQO

  2016

  Space Wunderkammer

  小金井シャトー2F

 グループ展

  Artist :    The continent : 鐘ヶ江 歓一、鈴木 雄大

                 八木             :八木 恵梨

                                     : 濱田 明李、岡本 大河

                 宮川              : 宮川 智宙 

展示の経過

 今回の展示は、岡本、鈴木、八木、鐘ヶ江の4人に よって当初企画されたものだった。メンバーはそれぞれに役職を持ち、一つの役職とし てその関係を構築するために作品を作ることを模索した。 役職はその潜在的なオブセッションや、バイアスを内的に創出し、連鎖させていくための枠組みであった。馴染まない者は集合を、時には自らを一方にすり合わせ、その在り方を変えていった。演じるということの摩擦が、集合と、それを演じる個人と短絡させることもしばしばであった。(現に市民は八木へと名前が変わった)

初期、構想

 まず、映像作品を主に制作し、身体の喪失、あるいはテクノロジーとの結びつきによる 新しい身体性を所望する(私にはそう見える)鈴木、鐘ヶ江の二人と、身体との強い結びつきや、その快楽の周辺で制作を行う岡本、その二項対立からスタートした。しかし、 この図式はクリシェと化したものであった。そこで、二点の間に挟まれ、圧力の集まる点を設定し、八木にその役職を与える構造を考えた。 (図1)

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(図1)

第2段階、3 竦み

 これら三点の構造は社会の持つそれに誘発されながら、三竦みの構造へと変わっていった。皇帝、市民、奴隷というカースト制でありながら、奴隷は皇帝に反乱を仕掛けることができるというものであった。これ以降、細部の扱いが変わりなが らも、この構造は、最後まで残っていった。 しかし、想定したようなオブセッションを取り出すことはできなかった。

(図2) 

 この頃から、(皇帝、市民、奴隷)は、(SF、市民、肉)と呼ばれ始め、それぞれにより観念的なもの、あるいはより象徴的なものに置換されていく。

(図2)

実験1

 優美な死骸というシュールレアリズムにおける実験を参照した。本来は共通無意識を検出する目的の実験である。わずかにはみ出す隣のグループの絵にそぐうような形で、その絵の続きを描いていく。我々が求めたのは逆にそれぞれが持つ無意識相互のズレや、 相互誤認的な状況を作り出すといったことだった。(図3)

実験2

 情報の不透明性や誤読を構造に取り込むことを模索しながら、規定している関係が全く 想像のものにすぎないことなどから、我々がほとんど手を加えることのできないナニカ、言わば勝手に動くシステムを作ることはできないかと考えた。そこで行ったのがキットを作成し、アリを飼うということであった。

SFは餌を、市民はアリを、肉は草を補給することができる。という規定の中で、それを日記として記録していこうと考えたが、結果、アリの発育は全く観察されず、想定し た循環も起こることはなかった。 (図4)

(図3)

第3段階 相互誤認的な

 この頃、私たちは、お互いの情報交換を極端に減らしていった。限られた情報の中で、 他のグループの動きを、またその相関関係を想像し合うような関係へとシフトし、三竦みの影にそれぞれのメタの領域を膨らませていった。 (図5)

第4期 情報統制

 宮川は空白の対象を操作する神(この呼び方を避けるメンバーもいる)としての役割を担い、肉が濵田を取り込むという形で、メンバーが揃うことになる。

SF (鈴木、鐘ヶ江)→The continent

市民 (八木)→八木

肉 (濵田、岡本)→

神 (宮川)

 宮川はそれぞれのグループのあり方を作り直すべきであると考え、三者から一度名前を抜き取り、仮定されていたヒエラルキーを廃止する。それと同時に、三者の直接の交流は一切禁止され、宮川を通してのみしか、コミュニケーションをとってはいけないとい う状況が作られた。

 こうして、それぞれのグループは、全く別の制作を始めることになる。 現在の名前である「The continent」、「八木」、「」という名前はそれ以降に決まっていったものである。 

(図4)

(図5)

​Statement

一人の企画者として  岡本 大河

 すでにこの世界を満たしている現実と決して妥協せず、時にはその現実との接近や融和を楽しみながら、表現という現実を行うこと。目指したのは、未だかつて存在したことのないそのような現実を丁寧に設計し、作動させるということであった。

 ここで、一つの展覧会が、一つの現実として機能するのはどのようなときであるのか。現実、テクスチャの羅列であるそれは、ある時々の視座と解像度に依存してそこに現れるものである。例えばその羅列がたった一つ水準による出来事、つまり事実として相対化され、その全体性へと統合される時、それは極めてグロテスクな企てに他ならない(全体性という景色もまたテクスチャであるだろう)。そういった意味で現実は、事実と混同されてはいけない。

 三つの集合「The continent」、「八木」、「」と、一つの点「宮川」があり、それぞれの集合は 「宮川」を通してしかコミュニケーションをとってはいけないこと、「宮川」の命令には従うこととい ったルールが設けられていた。このルールによって私たちはその視野を制限され、主観的にこの展覧会 に参加することを余儀なくされた。また、同じように、二箇所に点在し、一望することのできない会場は、一人一人の鑑賞者を、鑑賞者、個人としてこの展覧会に巻き込むためのものであった。

 ある集合はモニターの奥を支配し、鑑賞者をその消失点の奥へと引きづり込む。それに対して別の集合が行うのは表象する働きであり、鑑賞者に安全な距離を提示する。また、ある集合は、0距離で突き つけられる体験的なコミュニケーションを要求する。そして、それらを眺め、意図的に、時には恣意的に操作を加えられる一つの点がある。 そういった別々の運動が忽然一体となり、その相互作用によって、また、より抽象的なその強度のみ によって測られる。依拠する水準は混ざりあい、統合されないまま連結される。 集合、システムがあり、それら自体も有機的に移り変わっていく中で、一元化された目的によってではなく、目的の欠片に触発される集合それぞれの運動がその場を規定していくであろう。そしてその運動はそれぞれの視界に解像度の一応ではない景色を作り出す。それは始まりも終わりも持たず、言わば痙攣的、かつ定常的な物語であり、一つの現実としての展覧会である。