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 私達が担うのは、何かしらの徴候の役割であると考える。それは、このグループ展における構造が、3点のヒエラルキーを社会に似せて作られていた頃、私達が「肉」または「泥」という名前で呼ばれ、最下層に位置した頃とほとんど変わっていない。どのような形で逃れようともそこに張り付く気配のようなものであり、人が文明を築き自らをその内に閉じ込めた時、外部に退けられた(られなかった)もののことであるとも言えるだろう。

 

・平行棒、吊り輪、金網の向こうの街、鉄棒、それらのためのガラス張りの鑑賞室

 まず展示空間を占めるのは「場」としての役割を持つオブジェクトである。そこにその本体が入るのを待つ入れ物であり、規定する性質を持つものである。この「場」は身体との関わりを要請しながら、またそれを拒むように「場」それ自体が自立することを企む、いわば在り方としての痙攣の含む状態にある。これらが行うのは固定する働きによる規定ではなく、誘発、強制するような、動的な規定である。こうした用意がその本体を招き入れ、徴候を飼う「場」を形成する。

 

・写真、その他のオブジェ、監視カメラ

 整頓され、貼り付けられた粘土のようなもの、また並べられた写真作品がある。これらは、断片的、一方通行的な示唆でその徴候を捉えるための道しるべとして働く。また、監視カメラは実際の出来事を、さらに断片化された状態でシャトーへと送り、向こうの出来事として感覚させる。

 

・パフォーマンス

 粘土を絞り出す行為によって、また何かしらの筒を金網に差し込む行為によって、徴候をその穴から抜け出させ、この世界にその本体を現前化させようと企む。徴候、つまり所以を持つはずのものがそれ自体から抜け出し、本体になっていこうとする働き、また、なにかを演じる身体が、その行為によってそのパフォーマンス自体を抜け出ていこうとする働きは、むしろ同じものであると考えるべきであろう。

 茂みの奥から現れ、ガラスの向こう側で展開されていた一連の出来事は、窓を開けて部屋の内側へと侵入してくる。ここに侵入してくるのは、本体を獲得した徴候なのではないだろうか。